マラソンはやっぱり「マラソン」だった

東京マラソン2016 残り僅か

「人生はマラソンだ」と、言われることがある。

人生の紆余曲折を、マラソンに例える表現だ。まぁ、分からんでもない。

マラソンをやってみて分かることは、序盤(学生時代)はどんなレースでも「行きはヨイヨイ」だ。中盤(社会人初期?になると、だんだんと疲れが出てきたり、調子の悪さが露呈したりして、後半(社会人末期)のことが心配になってくる。

後半になると、疲れがモロに出てきて「我慢」のモードになる。僕の場合は、まだ人生は中盤ぐらいなので、実際のところは良く分からないが、何となく人生の後半もそのようなものなのだろうと、想像がつく。

そしてレース終盤。身体のアチコチがガタついてきて、痙攣したり、マメが出来たりと満身創痍になる。思うように身体が動かないし、沿道の応援や友人たちのゲキがこれほど有難いモノかと、他人への感謝の思いが強くなる。

これも、人生としては未経験ながらも、何となく想像がつく。

それだけ、マラソンというスポーツには起承転結・紆余曲折があり、様々な要素が複雑に絡み合って結果となる。それは本当に面白いスポーツであると思うし、何度走っても大満足というわけにはいかない。奥の深いスポーツである。

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ふと思った。

人生はマラソンに例えられる。じゃぁ、マラソンは何に例えようか。

いろいろ考えてはみた。ただ、良い答えは出てこなかった。

やっぱり、マラソンは「マラソン」だった。

当たり前だけど、マラソンはマラソンだ。

このマラソンというスポーツの、前半と後半の身体の変化・・前半はあんなに元気だったのに、あんなに余裕だったのに、後半は歩くことすら苦しくなることも。

希望しか感じない前半のワクワク感。

諦めそうになる自分との闘い。

時には、諦めてしまったことに対する罪悪感。

前半の愚行に対する後悔の念。

大満足とはいかないながらも、苦しみながらある程度の結果を残し、安堵する思い。

たった一枚の紙切れなのに、大切に手放さない記録証。

この素晴らしい「マラソン」というスポーツは「マラソン」というスポーツ特有のものであって、他の何かに例えることは、少なくとも僕の語彙力では実現できなかった。

逆に言えば、マラソンは人生のようなもの・・ということか。

僕の人生は、まだ序盤だと思ってウカウカしていたら既に中盤に差し掛かっていた。

人生とマラソン・・・もう少し、上手にマラソンを走れるようになったら、僕の人生も、先が見えてくるだろうか・・・(><)

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